中庸の年収は2500万円らしい
一番ちょうどいい年収は2500万円らしい。
昨日、昼のフレッシュネスバーガーで隣の小綺麗なママが、ママ友に向かって言ってた。
突拍子もなく「マックで隣の女子高生が~」みたいなこと言ってるけど、これは昨日マジで遭遇したワンシーン。
正確に言うとその小綺麗ママの、あんまし仲の良くないらしい友達が言ってたものを小綺麗ママが愚痴ってる様子だったけど。
曰く「収入2500万くらいあれば、欲しいものはだいたい揃えられる。
が、逆にそれ以上あると欲が出過ぎて幸せになれないから、2500万くらいがベストバランス」ということらしい。
マジでこれくらいの抽象度で言ってた。
「なんでそんな浮世離れしかけた生活水準の人妻がお前みたいな平々凡々リーマンの隣でそれもファーストフード店でメシ食ってんだ、嘘松!」
とか思われそうなので念のため説明すると、僕が勤めている会社が入居するオフィスビルの周りにはタワーマンションが累々とそびえ立ちまくってるので、会社の近くの商業施設で昼飯を済まそうとすると、そこらのタワマンに住んでるんであろうハイソサエティめなママがいらっしゃることが非常に多いのです。
小綺麗ママは、最低でも俺の安スーツくらいの値段はしそうな靴を履いた細足を組みながら、「この話、肯定しても否定しても年収がバレちゃうからやんわり頷いてかわしておいた!笑」と、友達のこれまた小綺麗なママ友に愚痴ってた。ママ友は笑ってた。
すごく腹立たしかった。
いや、腹立たしかったのは小綺麗ママに対してばかりではない。
確かに夫の年収でマウントを取り合って、自分はそれを平日の昼間にファーストフード店で暇つぶしのネタにするような専業主婦の姿が美しいとは思わない。
醜いと思うけれど。
でも、それ以上にそんな他愛のなさすぎる話を聞き流せなかった自分が腹立たしかった。悔しいけど、聞き入ってしまった。
事実、格安リーマンの僕には彼女たちの生活水準よりグンと下になるだろう年収1000万円くらいだって、とてつもなく大きな壁のように思えている。
なのにそのはるか上があるなんて。もはや世界を飛び越えて次元の違う話のように思えてしまった。
いや、しかし突き詰めればそんなことが問題なのでもない。
僕は「幸せはお金で買えない」を妄信していたい人なのだ。だから彼女たちの話に心を揺り動かされていてはいけない。にもかかわらず、聞き入ってしまった。
「年収300万でも1000万円でも幸福の度合いは変わらない」って、林先生も初耳学か何かで言ってた。経済的・物質的な豊かさを幸不幸の指標にしてもドロ沼にはまるだけだ、と自分に言い聞かせてきた。
でも、年収2500万円なんていう自分が決して届かなさそうな暮らしを、今まさに隣に座っている人間がしているだなんて思ったら、羨ましくて妬ましくてたまらなかった。
こんな隣のよもやま話に劣等感や嫉妬を感じるために1,058円も払ったんじゃないのに、と彼女たちが気にもかけてないであろうフレッシュネスバーガーの代金を気にする自分も悲しかった。
結局のところ、自分は「幸せはお金で買えない」と自分自身に言い聞かせながら、お金で得られるように見える幸せをいまだ渇望している。お金で幸せが買えるのかもしれない、という幻にいまだ魅せられている。
それに、正直言えば「幸せはお金で買えない」を、ある種「自分にお金を稼ぐだけの能力が無いこと」の言い訳として便利に使ってしまっている節もある。
いや、しかし「幸せはお金で買えない」はきっと不変の事実だし、それは決して豪勢でない今の暮らしをしていても、経験に基づく論拠はなくても、なんとなくわかる。
でも、情けないのを承知で正直に言えば、「幸せをお金で買おうとして、そこで初めてそれがお金で買えないことに気づきたい」と願う自分の存在も、また否定できない。
今の僕には、「お金で幸せが買える」という理論が果たして幻か否か、確信が持てない。
億万長者を望むわけではないけれど、例えば都心に月数十万のタワーマンションのひろびろ1LDKを借りて、月5万の駐車場に週一回乗るか乗らないかの維持費月15万のBMWを停めて、欲しいがままに飲み食いして服も銀座で買って海外旅行もビジネスクラスでして、それでも勝手に月数十万単位増えていく預金通帳の数字を見て、そこで初めてそれを幸せとは呼ばないことを、僕は知りたい。
書いて改めて自覚する、自分の望みのあまりのくだらなさ。くだらないし、自分にこの程度の経済力を持つだけの社会的能力があるとも、能力を得るまで努力を続ける才能もないのは、そろそろ気づいている。
であれば、自分が、自分が思っていたよりずっと有能でないことを認めるしかない。無能な自分を赦して、考え方を改めていくしかない。
劣等感と嫉妬から自分を救えるのは、自分しかいない。