続かない雑記ブログ -bakucotaの日記

映画ブログです。次書いたらやめるつもりで書いてます。

初めてハロプロのライブを見に行った話(juice=juice 10月29日 日本武道館)

 

 

 

 

 

f:id:mogmogegg:20181104023905j:plain

(ぶれまくっててすいません)

 

 

 

ハロプロのアイドル「juicejuice」のライブを初めて見に行きました。

 

自分はハロプロはおろか、アイドルのライブに行くことさえ初めてでした。

ライブで何か特有の見方や作法、文化があったりしたらどうしよう、とか思って初参戦に緊張していましたが、juiceちゃんのライブにはその手の初見殺し的な類のものは全然なくて、普通に楽しむことが出来ました。

 

 

初参戦でしたが、juicejuice自体はちょっとヤバいくらいハロプロが好きな友達(割とヤバい)から布教され教えてもらっていたので前から知っていました。「ロマンスの途中」や「イジワルしないで抱きしめてよ」といったアップビートの歌を教えてもらって、

「カッケェ!」と思ってよく聴いてました。

特に「ロマンスの途中」のベースをハマ・オカモトが弾いてるライブ映像が好きで、いつかは絶対にライブを見に行きたいと思っていました。

 

そんな中今週の月曜日にツイッター見ていたら、その日に日本武道館juiceちゃんのライブがあるのを知りました。

「行ってみてえなぁ」とツイートしたところ、そのハロヲタの友達が

「あるよ~チケット(当日券)、チケット(当日券)売ってるよ~っ」と教えてくれました(この書き方だとダフ屋みたいだけど普通に教えてもらいました)。

更に聞いてみると、ちゃんとしたホールを借りたjuiceのコンサートは、次はいつになるかわからないとのことでした。

 

彼女たちのパフォーマンスを最初に見るならライブハウスとかではなくちゃんとしたホールで見てみたいとは思っていたし、

週の始まり月曜日の僕はなんだか最高に鬱屈した気分を抱えていて「ハレ」を求めていたので、意を決してライブに行くことにしました。

 

その日は普通に仕事でしたが、幸いそれほど忙しくなかったので、1730分に定時退勤をぶちかまして即、会社から武道館のある九段下向かいました。

そしたら、なんと開演20分前の1810分には当日券を買って席に着くことができました。東京勤務つええです。

てか当日券も、普通に買えてよかった。

 

席に着いたら、ちょうど「こぶしファクトリー」ちゃんが前座として歌っていました。ハロプロって、後輩が先輩の前座を務める感じなんですね。知りませんでした。

間に合うか心配でかなり急いで来たので、暑くてバーっと吹き出てきた汗を拭きながらぼーっと見ていました。

 

 

 

 

そして10分くらい経って、とうとうjuiceちゃんのライブが始まりました。

 

 

 

 

 

f:id:mogmogegg:20181104023446j:plain

が、しばらくはあんまり知らない曲続きだったので、こんな感じの顔をしてしまっていました(知らなくてすいません、てかこの画像の元ネタが別アイドルなのもすいません)。

 

 

んですが、踊りも歌もウメェ~、かっけぇ。とは思っていました。

 

 

そして何曲の後に、僕の大好きな「イジワルしないで抱きしめてよ」が流れました。

 

f:id:mogmogegg:20181104030028j:image

テンション、ブチ上がりました。同時に、この曲のPVに出てくる石田亜佑美ちゃんの顔が浮かんで「モー娘。」のライブにも行きたくなりました。

 

 

 

その後何曲かあって、MCを挟んだ後だった気がしますが、

そこで僕が一番聴きたかった「ロマンスの途中」が始まりました。

 

 

 

 

f:id:mogmogegg:20181104030040j:image

テンション、ブチ上がりを超えて爆上がりしました。

生バンドの演奏ではなくトラックを流してる感じでしたが、そこはもはやどうでも良いのでした。

こんな感じでノリッノリで聞いていました(元ネタがウ◯ャホイな感じですみません)。

 

その後もライブは続き、アンコールも含めて合わせて20曲ほどをパフォーマンスしてくれて、ライブは大盛況のうちに終了しました。

どの歌にも大満足でしたが、特に記憶に残ったのはやはり「イジワルしないで抱きしめてよ」「ロマンスの途中」の2曲でした。

本気(マジ)でカッコよかった。

 

 

いやぁ、アイドルの、というかJuice=Juiceのライブっていいもんですね(水野晴郎感)。

あの空間にいるだけで彼女たちの持つ凄まじいパワーにさらされて、それだけで元気をもらえました。凄い空間だった。

 

同時に、彼女たちの真剣なパフォーマンスに非常に高いプロ意識を感じました。

「やらされてる感」が全然なくて、やりたくてやっていて楽しんでるから見てるこっちも楽しくなる、嬉しくなる。

歌い手踊り手よし、聴き手よし、世間よしの三方よしで最強なんですよ(世間もきっと良くなるはず)。

 

そして彼女たちの歌って踊る姿、つまりその"仕事ぶり"をみて、仕事ってこうあるべきだな〜、とも思いました。

月並みですがお金の為でなく、相手や、ひいては自己実現の為にお仕事をする人間の姿ってとてもカッコ良いものだ、と感じました。

 

総じて素敵なライブ体験でした。その後友達から聞いた話なのですが、juiceのライブでは歌は全部フルコーラスで歌ってくれていましたが「モー娘。」だと歌によって2番がカットされたり、どっかしら短くしてたりとか結構あるみたいでした。

そういう意味では「お気に入りの曲をフルコーラスで歌ってくれた」というところも含めて、

最初に行くアイドルのライブとしてきっと最大限の体験が得られたのだろうと感じています。いい感じで人生の実績解除できて良かった。

 

次は、娘。かアンジュルムのライブもみてみたいな。

中庸の年収は2500万円らしい

 

 

 

一番ちょうどいい年収は2500万円らしい。

 

 

 


昨日、昼のフレッシュネスバーガーで隣の小綺麗なママが、ママ友に向かって言ってた。

 


突拍子もなく「マックで隣の女子高生が~」みたいなこと言ってるけど、これは昨日マジで遭遇したワンシーン。

 


正確に言うとその小綺麗ママの、あんまし仲の良くないらしい友達が言ってたものを小綺麗ママが愚痴ってる様子だったけど。

 

曰く「収入2500万くらいあれば、欲しいものはだいたい揃えられる。

が、逆にそれ以上あると欲が出過ぎて幸せになれないから、2500万くらいがベストバランス」ということらしい。

マジでこれくらいの抽象度で言ってた。

 


「なんでそんな浮世離れしかけた生活水準の人妻がお前みたいな平々凡々リーマンの隣でそれもファーストフード店でメシ食ってんだ、嘘松!」

 

とか思われそうなので念のため説明すると、僕が勤めている会社が入居するオフィスビルの周りにはタワーマンションが累々とそびえ立ちまくってるので、会社の近くの商業施設で昼飯を済まそうとすると、そこらのタワマンに住んでるんであろうハイソサエティめなママがいらっしゃることが非常に多いのです。

 


小綺麗ママは、最低でも俺の安スーツくらいの値段はしそうな靴を履いた細足を組みながら、「この話、肯定しても否定しても年収がバレちゃうからやんわり頷いてかわしておいた!笑」と、友達のこれまた小綺麗なママ友に愚痴ってた。ママ友は笑ってた。

 

 

 

 

 

 

 

 

すごく腹立たしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

いや、腹立たしかったのは小綺麗ママに対してばかりではない。

 

 

 

確かに夫の年収でマウントを取り合って、自分はそれを平日の昼間にファーストフード店で暇つぶしのネタにするような専業主婦の姿が美しいとは思わない。

醜いと思うけれど。

 

 

 

でも、それ以上にそんな他愛のなさすぎる話を聞き流せなかった自分が腹立たしかった。悔しいけど、聞き入ってしまった。

 

事実、格安リーマンの僕には彼女たちの生活水準よりグンと下になるだろう年収1000万円くらいだって、とてつもなく大きな壁のように思えている。

なのにそのはるか上があるなんて。もはや世界を飛び越えて次元の違う話のように思えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 


いや、しかし突き詰めればそんなことが問題なのでもない。

 

 

 

 

 

 

僕は「幸せはお金で買えない」を妄信していたい人なのだ。だから彼女たちの話に心を揺り動かされていてはいけない。にもかかわらず、聞き入ってしまった。

 


「年収300万でも1000万円でも幸福の度合いは変わらない」って、林先生も初耳学か何かで言ってた。経済的・物質的な豊かさを幸不幸の指標にしてもドロ沼にはまるだけだ、と自分に言い聞かせてきた。

 

でも、年収2500万円なんていう自分が決して届かなさそうな暮らしを、今まさに隣に座っている人間がしているだなんて思ったら、羨ましくて妬ましくてたまらなかった。

 

 

 

こんな隣のよもやま話に劣等感や嫉妬を感じるために1,058円も払ったんじゃないのに、と彼女たちが気にもかけてないであろうフレッシュネスバーガーの代金を気にする自分も悲しかった。

 


結局のところ、自分は「幸せはお金で買えない」と自分自身に言い聞かせながら、お金で得られるように見える幸せをいまだ渇望している。お金で幸せが買えるのかもしれない、という幻にいまだ魅せられている。

それに、正直言えば「幸せはお金で買えない」を、ある種「自分にお金を稼ぐだけの能力が無いこと」の言い訳として便利に使ってしまっている節もある。

 

 

 

 

 

いや、しかし「幸せはお金で買えない」はきっと不変の事実だし、それは決して豪勢でない今の暮らしをしていても、経験に基づく論拠はなくても、なんとなくわかる。

 

でも、情けないのを承知で正直に言えば、「幸せをお金で買おうとして、そこで初めてそれがお金で買えないことに気づきたい」と願う自分の存在も、また否定できない。

今の僕には、「お金で幸せが買える」という理論が果たして幻か否か、確信が持てない。

 

億万長者を望むわけではないけれど、例えば都心に月数十万のタワーマンションのひろびろ1LDKを借りて、月5万の駐車場に週一回乗るか乗らないかの維持費月15万のBMWを停めて、欲しいがままに飲み食いして服も銀座で買って海外旅行もビジネスクラスでして、それでも勝手に月数十万単位増えていく預金通帳の数字を見て、そこで初めてそれを幸せとは呼ばないことを、僕は知りたい。

 

書いて改めて自覚する、自分の望みのあまりのくだらなさ。くだらないし、自分にこの程度の経済力を持つだけの社会的能力があるとも、能力を得るまで努力を続ける才能もないのは、そろそろ気づいている。

であれば、自分が、自分が思っていたよりずっと有能でないことを認めるしかない。無能な自分を赦して、考え方を改めていくしかない。

劣等感と嫉妬から自分を救えるのは、自分しかいない。

 

アニメ『シュタインズ・ゲート』『シュタインズ・ゲートゼロ』世界線を整理して表にしてみた

 

シュタインズ・ゲート』は面白いが、難解なアニメ作品だ。

初めてみたときは訳がわからなかった。キャラが一体何を言っているのかもよくわからなかった。でも、観終わった後にえもいわれぬ深い余韻と感動が残っていた。

 

続編『シュタインズ・ゲートゼロ』も、また手強い。また何を言っているのかもよくわからなかった。

でもわからないなりにシュタゲ無印も含め何回か見返したりしていくうちに、だんだんと登場人物の言ってることがなんとなくわかるようになってきた。

 

そんな風に理解を深めようとする中で、タイトルの通り『シュタインズ・ゲート』『シュタインズ・ゲートゼロ』の世界線について、主人公・岡部倫太郎の体験する時系列になぞっていくとどうなるのか整理して、下記に表にしてみた。

アニメシリーズのみを対象にしているので、ゲームやドラマCD等に出てくる世界線については書いていない。

 

前作・今作とシュタゲをそれぞれ見終わったけれど話が飲み込めきれずに混乱中の人はぜひ参考にしてみてください。

かなりに注意深く作ったので間違いはないと思うけど、

もしあれば教えてください。

 

 

※思いきりネタバレがあるので注意

 

 

 

こちらです 

 

 

f:id:mogmogegg:20181001215218j:plain

字小さくて、すみません。

はてなブログにそのまま表として埋め込もうとしたらあんまうまくいかなかくて、あと矢印とかも消えちゃうので画像で貼り付けた。

 

 

簡潔にまとめると、ちっちゃな過去改変などは何回もあるものの、世界線ごとでの大きな移動は

 

① 無印#1  『始まりと終わりのプロローグ』β→α

 

② 無印#22『存在了解のメルト』 α→β

 

③ ゼロ#8  『二律背反のデュアル』β→α、またすぐα→βへ、

 

④ 無印#23『境界面上のシュタインズゲート』β→SG世界線

 

の4回なんですねえ。

 

 

 

『シュタゲ無印』はα世界線メイン、『シュタゲゼロ』はβ世界線がメイン。

『シュタゲ無印』のみ見ると、SG世界線への到達は一見、α世界線のオカリンの努力のみでたどり着いたように見えたけど、

内実は、その成功はβ世界線でのラボメンを含むみんなの暗躍によって成り立っていた、ということなんですねぇ。神。

 

あんま需要ないと思うけど以下URLは上の表のxlsxファイルです 

https://docs.google.com/spreadsheets/d/e/2PACX-1vR5zzFj44opxXTuNKBQkACpVb4jYRZacYVRuS9PI23ccbOjylUIJzT4CEIcaomGjLeiIyVjQlW31ny9/pubhtml

自分なりの考察を付け足したい時にぜひ使ってください

 

みんなでシュタゲを考察して幸せになろう

シュタインズ・ゲートゼロ最終話『無限遠点のアルタイル』考察-”無限遠点”の意味とは-

 

 

 

シュタインズ・ゲートゼロ最終話『無限遠点のアークライト』を観た。

誰もが納得のグランドフィナーレだった。無駄と矛盾の一切ない脚本、前作『シュタインズゲート』を含めた伏線の完璧な回収、文句のつけようのない作画と声優陣の迫真の演技。全てが100点満点のアニメで、めでたい感動の最終回だった。

 

 

 

 

 

 

ところで・・・

タイトルについてる”無限遠点”って、なに?

 

 

 

 

 

 

 

なんならアルタイルも何?

 

 

 

 

 

と思って、最終回の余韻に浸りながら調べていたら、

思わず膝を打ってしまうような考察がひらめいてしまった。

ので、それを下記にしたたメル。何回書いても”したたメル”のメルが岸田メル先生的な変換をされてしまうので諦めてそのままにしたメル。このメルは余計だった

 

 

 

 

 

 

※以下ネタバレ注意です 

 

 

 

 

■”アルタイル”、”アークライト”とは

 

無限遠点の前に、”アルタイル”と”アークライト”、この二つの意味があんまりわかってないままごっちゃになってしまうのはよくないので

日本語にする。

 

アルタイル(Altair    ・・・彦星のこと。

 

アークライト (Arc light)・・・織姫のこと。星座名としてはベガ(Vega)と呼ばれる

 

以上のようになる。

何の事は無い、アルタイルは七夕の彦星、アークライトは織姫なのだ。

つまり、まゆりが七夕の夜に公園で泣きながらオカリンと話し合いをしたあの16話は『無限遠点の織姫』、

この最終話である23話は『無限遠点の彦星』という意味のタイトルだということになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■で、”無限遠点”ってなに?

 

 

 

肝心の”無限遠点”。これは一体どういう意味なのだろうか。

頭の中だけでしばらく考えたが、案の定全くわからなかったので”無限遠点”をGoogle先生に聞いてみると、”無限遠直線”という幾何学用語に行き着いた。

下記はネット百科事典『コトバンク』による”無限遠直線”の説明である。

 

 

無限遠直線

むげんえんちょくせん

line at infinity

平面幾何学において,同じ平面上の2本の平行な直線は,無限に遠いところにある1つの点,すなわち無限遠 point at infinityで交わると考えたほうが便利なことがある。これは,直線の上には1つずつ無限遠点があり,1つの平面上で,互いに平行な直線はすべて同じ1つの無限遠点を共有すると考えることである。この場合,同じ平面上で,これらの無限遠点は一直線に並んでいると考えると都合がよい。このとき,この直線を無限遠直線という。このように考えれば,相異なる直線はいつもただ1点を共有することになる。これが射影幾何学の考えである。

無限遠直線とはーコトバンク』(https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E9%99%90%E9%81%A0%E7%9B%B4%E7%B7%9A-1403392018/09/27参照

 

 

 

うむ、全くわからん。

だがよくわからないなりに無理やりかいつまんでみると、多分こういう意味だ。

 

二つの平行な直線が | |   こんな感じであったとして、その二つの直線は、無限に遠いところ(どこかは不明)において、最終的に点として交わるらしい。

(正確にはそういうことにしておくと、平面幾何学においては便利らしい)

その交わる二つの線を無限遠直線交わる点のことを"無限遠"と呼ぶらしい。

 

 

うむ。未だよくわかならいので、下記のように図にしてみた。

 

f:id:mogmogegg:20180927221149j:plain

無限遠点の図。二つの並行する無限遠直線が交わる点を無限遠点と呼ぶ





 

なんとなくわかった(気がする)。

一見、交わるように見えなかった二つの線が、果てしなく遠いところで最終的に交わるのである。

うむ。幾何学的な意味ではいまだ全くわからないが、この”無限遠点”がタイトルで指し示す意味は、つまるところ下記のようなものなのではないだろうか。

 

 

オカリンは、まゆりを大切に思うがゆえに、まゆりには何も知らず平穏な生活を過ごしていて欲しかった。

対してまゆりはオカリンを慕うゆえに、自分がオカリンという彦星から輝き(鳳凰院凶真)を奪ってしまったことを悔やんでいた。

 

お互いの思いは平行線を辿っていたが、

まゆりは、オカリンの人質でいることを辞めてオカリンの輝き鳳凰院凶真)を取り戻しに過去へ行くことを決意し、

オカリンはまゆりのその気持ちを受け止め、まゆりを過去へと送り出した

 

 

そのためこの平行線が、最終的に点として交わった。

 

 

無限遠点のアークライト(織姫)、無限遠点のアルタイル(彦星)

というタイトルは、上記のような意味だと考えることができるのではないか。

 

 

最終的にオカリンは、どこだかすらわからない紀元前18,000年の空間で、鈴羽、そしてまゆりを救出する。

時間と空間さえ超えた、無限ほどに遠いBC18,000年の場所が、この二つの線の”無限遠点”だったのだ。

 

(ちなみにここまで熱意持って書いてきたのにロマンもへったくれもないことを言うと、BC18,000年の地球は最終氷期という時代にあたり、平均気温は-40度ほどだったそうなので、オカリンみたいな白衣にシャツ一枚くらいだと、普通に凍えしぬっぽい。

オカリン大丈夫かな。)

 

 

という考察をしてみたのですが、どうでしょうか。

 

シュタゲゼロ最終回放送日なので"ゼロ"の意味を考察する

 

 

このブログの名前に「映画ブログ」とあるのにこの記事は「シュタゲ」というアニメについて書くので違和感ある人もいるかもしれないけれど、まあそんな矛盾をいちいち気にかけることもないような自己満の過疎ブログだし、ブログというのは「チラシの裏」の言い換えだと思うし、内容が何であれ書きたいことがあるのはきっと良いことなので、好きなように書く。

 

 

「シュタゲゼロ、マジでおもしれぇ」と、この数週間で何回思ったかわからない。今、僕はアニメ『シュタインズゲート・ゼロ』通称・シュタゲゼロに熱中している。

 


そのシュタゲゼロも今週というか今日、ついに最終回を迎える。この時に備え、Netflixで前作であるシュタインズゲートを全話見返し、シュタゲゼロも最終話直前の22話まで見返し、先週発売したゲーム「シュタインズゲート・エリート」を毎日コツコツ進めている自分に取って、今週はまさに約束されたグランドフィナーレの時なのである。

 

 

 

そんな時にふと脳裏によぎったのだけど、今まであんまり考えもしなかったけどシュタゲゼロの"ゼロ"って、いったいどんな意味なのであろうか。

いや数字のゼロっていう意味であることくらいはなんとなくわかるのだが、この"ゼロ"、漠然と続編としての意味を持つ符号くらいにしか思っていなかった。

しかしシュタゲくらい綿密に作られたアニメであれば、この二文字にも特に意味が無い、わけがない。

 


なので、個人的に爆発的にテンションが高まっている最終回の今日、このタイトルの"ゼロ"の意味に想いをめぐらしつつ放送を待ちたいと思う。

以下に自分が考えついた"ゼロ"の意味を何個か書いていきます。

 

 

 

※がっつりネタバレあります

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◼️紅莉栖がいない世界、という意味での"ゼロ"

 

前作である『シュタインズゲート』は、主にα世界線での物語だった。α世界線はSERNが2034年にタイムマシンの開発に成功し、世界を統治するようになったディストピア世界線で、そして椎名まゆりが2010年8月に必ず命を落とす世界線でもある。

オカリンは偶然に送ったDメールによって、まゆりの死が運命づけられているこのα世界線へ移動したのだった。その世界線から脱しまゆりを助けるため、過去改変を起こしたDメールを取り消して行き、IBN5100でのクラッキングによってβ世界線へと戻っていった。

 

『シュタゲゼロ』はこのβ世界線を舞台にした物語だが、この世界線では、まゆりのかわりに牧瀬紅莉栖が亡くなっている。

この紅莉栖の亡失はオカリンにとって、形容できないほどの大きな意味をもつ。

つまり、牧瀬紅莉栖のいない世界=ゼロの世界。

という意味でのタイトル"シュタゲゼロ"なのではないか説。

 

 

 

 

◼️プラマイゼロ的な意味の"ゼロ"

 

(シュタゲゼロ最終話の内容が、シュタインズゲート世界線への到達に帰結すると仮定しての話になるが)

オカリンが最終的にシュタインズゲート世界線に到達すれば、今までのオカリンの前で起きた負の出来事の記憶(まゆりの死・紅莉栖の死・鈴羽・萌郁・天王寺の自殺etc・・・)

それらが全て、報われることになる。

つまり、すべてがプラスマイナスゼロになり清算される、という意味での"シュタゲゼロ"なのではないか説。

 

 

 

 


◼️ゲーム『シュタインズゲート』のop曲「スカイクラッドの観測者」の歌詞の意味の上での"ゼロ"

 


個人的にこの説が一番しっくりきている。

アニメではなくゲームの方のシュタインズゲートの主題歌『スカイクラッドの観測者』のサビの歌詞に、

 


"「0」が過去で「1」が未来"

http://www.kasi-time.com/item-45129.html


というフレーズがある。

この歌詞を鑑みると、

まゆりも紅莉栖も死なず、第三次世界大戦も起きないシュタインズゲート世界線を"未来"とした場合に、その世界線へ行き着くまでの過去の物語を"ゼロ"、として捉えることが出来る。

シュタインズゲート世界線に到達するまでの過去の物語だから、過去=ゼロで、"シュタゲゼロ"なのではないか説。

 

 

 

◼️「厨二を捨てた岡部」的な意味での"ゼロ"

 

『シュタゲゼロ』は、シュタゲ無印であれほどに厨二病全開だったオカリンが、鳳凰院凶真を封印し、厨二病を捨てた物語。

鳳凰院凶真を捨て、普通の岡部倫太郎に戻った、すなわち0になったという意味においての"シュタゲゼロ"なのではないか説。

 

 

 

◼️カロリー"ゼロ"

 

本作に登場してくる2036年のダルは、2011年と比べ激的に痩せている。いったい彼はどうやって痩せたのか。

作中ではダルの食生活に言及される部分はほぼなく、大食漢なのか少食なのかはわからない。だがひょっとすると、某人気芸人が提唱するようなカロリー"ゼロ"理論により、大幅な減量に成功した。という意味での"シュタゲゼロ"なのではないか説。

これは幾ばくか無茶なこじつけな感じがするが、それは上記全ての仮説おいて言えることなので、気にしないでほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上、思いつくだけの仮説を羅列してみた。なんとなくだけど、上記の中だと「スカイクラッドの観測者」の歌詞と照らし合わせた仮説が一番それっぽいと思う。作詞はシュタゲ原作者の志倉千代丸さんだし。

といって、これを含め全て妄想の域を出ない。

 


また、ひょっとしたら

「タイムマシン理論の2番目の仮説であるワームホール理論において、0という数字が◯△※◼️を意味し~」とか

一般相対性理論においては、★◇※のことを、0とする~」とか、

空想科学ADVらしい考察のアプローチの仕方もあったのかもしれないのだが、残念ながら僕にはそんな知識はまったくもってこれっぽっちも全然持ち得ない知り得ないので、以上のような考察となった。

書いていたらテンションあがってきたので、このままウキウキしながら最終回の放送を待つ。

"どうにかして最高の鑑賞体験を手に入れろ!"『カメラを止めるな』感想

f:id:mogmogegg:20180828225918p:image

http://kametome.net/index.html

 

話題の『カメラを止めるな』見てきました。

 

 


作品の内容云々の前に、この映画の制作費が300万円というツイートを見て、思考が全部それに引っ張られています。

 

 

制作費・300万円て安すぎませんか。秒速で億稼ぐ男、与沢翼の0.03秒分ですよ。いきなりなんだって思うかもしれんけど。なんとなく言いたかった。 

 

 

 

 

 

ほかの映画の制作費と比較してみても、40年くらい前の映画ルパン3世カリオストロの城」ですら、制作費は3億円なんですよね

予告映像とかで大々的に「制作費3億円!」と宣伝していた。

カメラを止めるな、100本つくれるやん。

 

 

 

 

 


いや、それを言うならパイレーツオブカリビアン/ワールド・エンド』なんて、怒涛の製作費・300億円なんですよね。

300億ってなんだよ。300億は2003年のバチカン市国の国家予算に匹敵する額らしい。

カメラを止めるな、10,000本つくれるやん。

 

 

 

 

 

 

 

いやいや、国家予算繋がりで言えば昨年のアメリカ合衆国の歳出額は300兆円なんですよね。

カメラを止めるな、100,000,000本作れるやん。

この比べ方はナンセンスか。

 


制作のことなんて全然詳しくないけど、制作費300万円が超がつくレベルの低予算なのは想像つきます。

300万円であんな良い映画って作れるんですね。ひとえに脚本の勝利だなぁ。

 

 


そんな『カメラを止めるな』かなりオススメの映画です。

まさか『カメラのキタムラ』と同じようなイントネーションの映画がここまで面白いと思ってませんでした。ナメてましたすいません。

まだ見てない方、是非見に行ってください。

 

 

 

でも見る前には是非、何も調べないでください。

 

 

『カメラを止めるな』は、

"事前の情報が一切耳に入っていない状態"で、

劇場では"ほかの客も無反応な環境"で

鑑賞するのが、一番鑑賞体験とはしてよいものだと思うからです。

 

それが何故なのか、それは言えないのです。いうとつまらなくなってしまうからです。

  

 

事前の情報が入らないようにする、という点では予告編映像とかも見ちゃダメだし、フィルマークスとか映画情報アプリ・サイトの映画紹介文もダメなのです。

もう、なにも見てはいけません。

 

 

 

今、この映画に対して持っている情報が

「なんかつまんなそうなゾンビ映画なのにずいぶん話題になっているな」これだけな人。その人が、この映画を一番楽しめる人だと思います。もしこのブログを読んでくれている貴方がそうなら、騙されたと思って是非劇場見に行ってください。絶対楽しめるので!

そんでもって下に書いてある感想をもう一度見に来てください。頼むよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こっから先でネタバレありの感想を書きます。

注意してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 つらつらと書いていきます。

 この映画を見た人は、上に僕が「何も見ない・何も知らないまま見た方がよい」と

くどくど書いて来た意味をきっとご理解頂けると思います。

 

この映画って、

"作品について持っている情報”

"映画を視聴する環境"

この二つによって、映画体験のクオリティがかなり左右される映画だと思うのです。

 

なぜなら、何も知らないままで見るのが一番面白いからです。

一見なんの変哲も『Z級ゾンビ映画』のその裏に、いかに面白い伏線が隠れていたのか。

それをなんの前情報もない状態から体験できる、というのが、

間違いなくこの映画における最高の鑑賞体験なのです。

 

 

 

 

しかし、全く無知の状態で映画館に辿り着くことは、当然のごとくとても難しいです。

 

 

 

 

例えば、下は映画のSNS的なアプリ『フィルマークス』の映画の紹介文なのですが、

 

 

f:id:mogmogegg:20180828230446j:image

 

こんな5,6行程度の文でも、見てしまったら、ぶっちゃけもうアウトなんですよね。

文末に、わざわざ「撮ったヤツらの話」とある。

これ見てしまったら、「ああこれ単純なZ級ゾンビ映画、っていうわけじゃねえんだ」ってバレてしまう。

 

 


でもそれじゃダメだと思うのです。この映画を観に行くにあたって、

「なんかつまんなそうなゾンビ映画なのにずいぶん話題になっているな。何もわかんねえけど、見に行こう」

これくらい無知なのが、一番良いのです。

 


そんでもって、そのゾンビ映画への期待を"良い意味で見事に裏切る"、という芸当を魅せてくれるのが、

この映画の核となる部分だと思うからです。

1mmでも「単なるゾンビ映画じゃねえんだ」っていう事前情報があるだけで、それだけで一歩引いたところから見えてしまう。それはこの映画の最高の鑑賞体験とはいえないものだと思うのです。

 

そういう意味で、鑑賞体験のクオリティを削がれる可能性(危険性)は鑑賞前のみならず鑑賞中にもあります。

それは劇場にいるリピーターの存在です。


この映画は、一度見てしまったら確実にもう一回見たくなる映画なのです。

冒頭30分の初見ではクッッソつまんないシーンが、2回目以降はめちゃくちゃ面白く見えてくるからです。

 


例えば監督役の日暮監督が神谷演じる男優に向かって「テメーはリハの時からグチグチ文句ばっか言いやがって!」って怒鳴るシーン。

これ、2回目以降見る人にはなかなか笑えるシーンだと思いますが、

でも、初めて見にきた人にとっては、こんなシーンで笑えるのなんて、おかしいんですよ。なんの文脈も知り得ていないので。

劇場に見にきて、もしここでのシーンで笑いに疑問を持ってしまったら最後、

その時点で、今見ている映像に伏線が張りまくられていることに、裏があることに気づかされてしまう。

 


だから、極論を言えばリピーターのいそうな劇場で初めて鑑賞することは、っつうか要はリピーターが無神経に鑑賞するようなとこで見るというのは、オススメ出来ないのです。

『カメラを止めるな』の映画鑑賞において、周りの初見の人の事を考えない、無神経なリピーターは、英語で言うところのspoilerつまりスポイラー=台無しにする人なのです

この映画は劇場でさえスポイラーを警戒しなければならない難しい映画なのです。

つっても、このネタバレ対策として実際何かができるかというと、難しい。っつかムリなんです。なんやねんって話ですよね。ごめんなさい。

でも、なるべく東京でいうところの渋谷・新宿あたりなんかを避ければネタバレ野郎もきっと少ないんじゃないですかね。ここら辺のエリアは公開してから日も経っているし、なんかコアな映画好きが集まってきそうなイメージなので。

そこら辺避けるのアリなんじゃねえかな。

すいません、よくわかりません。

 

  

いやしかし、もちろん2回3回とリピートしてこの映画を鑑賞する方を悪くいうつもりもありません。この映画のユニークかつ面白いところが、まさに"Z級の映像を見たことが報われる"ことだと思うからです。

つまりは冒頭30分のつまらん映像を見た"甲斐がでてくる"ということ。だからリピートしたくなるのも無理はない。

ただ、初めて見に来た人も、同じく冒頭30分を"つまんなく見てもらう"ための配慮をする必要はあると思います。

めんどくせえかもしんねぇけど。

 


そう、最初の30分って初見ではクソつまんねえんですよ。

大体のクソ映画って、見たあとに残るものって「お、時間を無駄にしたな」っていう虚無感とモヤモヤだと思うのですが、

この映画の冒頭30分の「one cut of the dead」の部分も、初見ではまさしくそれに当たるじゃないですか。クソつまらん。

 

 


クソ映画がどうしてクソ映画たるかっていうと、ひとえに「理由(わけ)がわからない」ことが多すぎるからだと思うのです。

「なぜ、このタイミングでこんな表情してんのか」とか

「なぜ、このタイミングで走り出すのか」

「なぜ、そんな理由でここまでの凶行にいたるのか」とかみたいな。理解できないことが多いから、ストレスになってクソ映画認定されるんすよね。

 


でも、この映画は後半でその"答え合わせ"ができるようになっている。

大抵のクソ映画が撮る方の自己満足に終わる中、この映画は「それがどうしてクソになったのか」というのを種明かししてくれる、鑑賞者の方に寄り添ってくれるタイプの映画なんですよ。だからめちゃくちゃ面白い。痛快っていう表現が似合う気がします。

 

 


それゆえに、一番最初に見る冒頭30分は、ひたすらにつまらなく思えるのが「正解」なのです。

だからその裏が見えないために、何度もいうけど

「何も知らない状態で劇場にいって」、「何も知らされない劇場で観ている」というのが、最高の鑑賞体験のために必要なのです。

 

かく言う僕も、テレビでこの映画の紹介を見ていたらフッッツーにネタバレを見させられて、本来得られるはずだった面白さが確実に半減した身です。

「あの番組見てなかったら、絶対もっと楽しめただろうに」という思いを胸にひめながら、半分悲壮感とともに観ていました。

だからこそ、まだ何も知らない人には知らないまま見て欲しかったのです。

人間は、一度知ってしまった事を忘れることはできませんからね。いいこと言ったな。

 


まあネタバレ食らった僕でも充分面白かったので、

前知識0であればめっちゃくちゃ楽しいはずです。観た人、楽しかったですよね?

 


 以上

 

つづく,

 

 

 

"サマーウォーズの焼き直しが見たかった"『未来のミライ』感想

 

f:id:mogmogegg:20180826001216j:image

 

https://goo.gl/images/d8Duus


少し前なんですけど未来のミライを見ました。

 

※以下、ネタバレあります。ネタバレせずにうまく書けたらいいんですけど、難しかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

タイトルに記した通りなんですが、自分としてはサマーウォーズっぽいやつが見たかったんですもよね。期待してたものと、ちょい違いました。

 

 

 

 

 

 

 

僕は、"サマーウォーズの主人公の健二くんみたいなキャラの男の子"が、4歳児の時にした不思議な冒険、

みたいなストーリーが今までのTHE・細田守みたいな感じのテイストで描かれるのを期待して見に行ってしまいました。

 

たとえばですけど「主人公・くんちゃんが突如現れた未来の妹のミライちゃんに導かれながら、過去へ未来へと冒険していって、結果現在の家族に降りかかろうとする災厄から救うことにつながる」みたいなものを勝手に想像していたのです。

こういうのは、ジャンルとしては典型的な"セカイ系"というものに当たるので、細田守作品はおろか最近のアニメ映画としてはなかなかにありきたりっちゃありきたりなのですが、ぶっちゃけそんな典型的なものが見たかったんすよね。

僕以外でも、今までの細田守作品を見てきた人は、そういう類のものを期待して見にいった人いたんじゃねぇかな。

 


そしたら、なんだかよくわかんないけど、この映画はその実

"わがままな4歳児のホームビデオ"

だったんですよ。 

あれは、ホームビデオだと思う。

 


ほとんど4歳児のくんちゃんがダダこねて、それをお父さんお母さんがなだめるシーンがメインみたいな感じだったんすよね。

子育てのシーンをリアルに描いていることはあの映画の一つの大きな特徴なのですが、そこをあまりにリアルに描きすぎて、それがマイナスに振れているんです。

 

マイナスなんですよ。百歩ゆずってあのストーリーでも、くんちゃんにもう少し可愛げさえあれば楽しく見れたかもしれない。

でも、あえて誤解を恐れずに言えば、

くんちゃんは、2次元のキャラクターだと言う大前提の下であえて言うのであれば、

リアルな"ク◯ガキ"なんですよ。

 


いくら善悪の分別がついていないような年齢とはいえ、生まれたばかりの自分の妹の鼻を摘んで爆笑したり、泣かせた上に新幹線のおもちゃで叩いたり。

それで怒られた挙句にでかい声で泣くのは子供だから仕方ないとしても、

赤ちゃんに暴力を振るうのは「子供だから」で許されるレベルを超えている。そんないたずらをしているクソ◯キなんですよ。

その時点でもう映画は見ている人には、くんちゃんに対する共感の余地は無いと思うんですよね。

子供としてのくんちゃんのリアルな動作を描写したかったんでしょうけど、あまりにリアルな◯ソガキが描かれていて、面白みがなくなってしむっているんですよ。


わざわざ映画館に映画見にきて、そんでスクリーンに広がったのがク◯ガキのホームビデオですよ、なんでやねん!!!!!!!!!!!

てなってしまった。

 

 

 

 

 

ほんと、サマーウォーズみたいな冒険ものでよかった気がします。サマーウォーズは個人的にはツボな映画でした。

公開当時僕は高校生だったんですけど、最初にこんなに面白いアニメ映画があるのかってひたすら感動していました。

エンディングのどことなく懐かしい山下達郎の『僕らの夏の夢』も最高で、思春期真っ盛りの夏にあんな映画体験ができたのは幸福以外の何物でもなかったです。

 


だから今回の映画で、オープニングの山下達郎の『未来のテーマ』がその興奮を思い出させてくれて、劇場でまた鳥肌がたちました。

ただ、思いっきり期待してしまっただけに、その中身に拍子抜けしてしまった。

もうサマーウォーズみたいなドキドキは味わえないのかな。それは歳のせいなのかな。未来のミライも高校生の時に見られたら面白かったのかな。まぁわかんねえけど。

 

 

 

んで、さんざホームビデオって書いてきましたけど、この映画の中の子育て観が正しくあるかっていうとそんなことはない気がして、ひとつ決定的に違和感を感じたシーンがありました。

くんちゃんが、家のダイニングに飾られた雛人形に興味を持つシーン。

「ひな人形、ほしい」に対して

そこでくんちゃんのお母さんが「くんちゃん、男の子でしょ!」と、くんちゃんの関心を一蹴するんですよね。

 

これは「ひな人形は男の子が興味を持つようなものではない」という昔の価値観の押し付けに他ならないし、

ていうか、そもそも未来から来ているミライちゃんが、「ひな人形、一日片付け遅れたら一年嫁に行き遅れるから、片付けて!」みたいな、いつの方ですか?みたいな「嫁入りへの負のジンクス」をめっちゃ気にしてる描写も、完全に男が描いた"女のコ"の視点だと思うんですよね。ちょっと、キモい。


この映画の中での子育ては、一見すれば「未来感あるデザインの家のなかで、夫が積極的に子育て・家事に参加していく」っていう体をなしていて、これからあるべき新しい子育てのあり方が見られそうな感じがしているんですが、

実際には旧来の価値観での思考停止が見られたりして、もうアベコベなんですよ。

物語全体に見られる起承転結のなさも含めて、なんかよくわかんなかったな、で終わってしまう。

 

ただ、駄々をこねる子供の描写はリアルなので、この映画には子育てで奮闘した・奮闘しているパパママたちがそこに共感できる、という意味での良さはあると思います。

なので、個人的には、また見るのは親になってるかもしれない10年後とか15年後くらいで、

金曜ロードショーでやっていたら、

それくらいでいいかなと思いました。

 


これまでずっとこの映画を落とす事しか書いてないですが、最後に上げる、というかものすごく良かったと思う点を一つ書くと、この映画で描かれていた『未来の東京駅』のデザインは最高だと思っています。

 

 

f:id:mogmogegg:20180825191814j:image

https://goo.gl/images/eTDnVY

 

これです。
これはフランスにあるオルセー駅と、辰野金吾設計の東京駅の双方のデザインをうまく混ぜつつ、近未来的なテイストを違和感なく取り入れている文句のつけようのない、駅なんですよ。

洗練されすぎ、クソかっこいい。

 

この映画が、このクソかっこいい東京駅をプラットフォームにしつつ、くんちゃんが冒険する映画だったらぼくには大好きな映画だったろうなぁ、と思います。

 

以上

 


つづく,